煮え切らない黒塊は、ここ数日、胸の中をじくじくと蝕んでいた
 毒殺の一件以来、俺と貴沙烙との中には微妙な寒風が吹き荒れている。
 殴ってしまった手前、なんだか顔を合わせづらい。あの時の貴沙烙の言葉を思い出すと今でも怒りが沸き上がるが、そもそも、貴沙烙や元堅の言葉を信じずに硫影を青軍に置きつづけたのは、俺だ。
 あの騒ぎは俺が引き起こしたとも言えるだろう。その俺が、あの場で貴沙烙を責め立てる権利があったのだろうか? 貴沙烙が止めてくれなかったら、俺は毒の白湯を飲んでいただろうに……。
「くそ」苦いため息と共に、ゆるく頭を振る。
 考えれば考えるほど袋小路に追い詰められていくようだ。
 これ以上はやめておこう。せめて、城のベッドの中で考えよう。
 そう心に決めて、木の根元に下ろしていた腰を持ち上げる。
 仲間たちはずいぶん広がって野営を展開しているようで、元堅は見当たらず、親しい者同士で話し込んでいるらしい影がちらほらあるだけだ。
 たぶん、元堅は森の中だろう。街道は森に沿っている。ちょっと足を伸ばせば新鮮な食料が手に入るとあっては、彼の猛将が黙っている筈もない。
 必死に獣を追いまわす元堅を想像して、口元が綻んだところで、鼻先を水滴が掠めた。
「雨か」
 真っ黒に染まった空から、ポツポツと雫が落ちていた。
 仲間たちの慌てふためく声を聞きながら、俺は森へと足を踏み入れた。
 木々が雨を防いでくれるだろうし、今夜の寝床も確保したい。ぐるっと見渡して、頭上に広がる緑色の絨毯から、頭ひとつ抜き出た月桂樹に気がついた。
 周辺は開けていて、他の樹木も無い。
 けれどその月桂樹は、野太い幹や力強い枝に支えられて、数メートル先までにも自らの葉を伸ばしていた。この下でなら、雨宿りもできるだろうし、気持ち良く眠ることもできそうだ。
 枯葉を踏み鳴らしてふもとに近寄り、俺は何気なく、死角になっていた幹の反対側を覗いた。
 情けなくもビクっと肩が震えた。
「貴沙烙」
 蚊が鳴くほどの声量に、貴沙烙は振り返らなかった。
 小雨に掻き消されてしまったのだろうか。すぐさま立ち去ろうとして、ふと、貴沙烙を覗き込む気になった。予感は的中していた。貴沙烙は、幹に上半身をもたせたまま瞼を閉じていたのだ。
「脅かすなよなぁ」
 寝ているのなら、怖気づくことなんてない。
 俺はまじまじと貴沙烙を覗き込んだ。
 シャープな輪郭とは対照的な、ふわふわした巻き毛。甘さを残していながら引き締まった口元と、長い睫。本人が美しいと連呼するだけはある。一つ一つのパーツが、よくできているのだ。
 こんな顔を殴ってしまうなんて、もしかして大それたことだったのだろうか。
 いやいや、殴ったことに関しては、貴沙烙が悪いと思うけれど。でも、こうして見ていると、腫れた頬を抑えていた貴沙烙の姿が思い浮かんでしまう。あの時の彼は、本当に本気で怒っていたのだろう。瞳の奥で炎をたぎらせた貴沙烙と、今、無防備に眠りこける貴沙烙は別人みたいだ。
 気付けば、自然と腕が伸びて、貴沙烙の頬に触れていた。
 雨で冷えた肌は、しっとりとしているが確かな弾力がある。女の子みたいに滑らかな肌だった。
 始めは人差し指で遠慮がちに触れていたけれど、いつの間にか、手の平が頬にぺったりとくっ付いていた。少し上向かせてみると、ふんわりした巻き毛が風に揺らぐ。
 柔らかそうなそれに手を伸ばそうとして、俺は、はっと我に帰った。
「何やってるんだろ」
 ドギマギしながら辺りに人影がないことを確認する。
 雨が地面を叩く音、それだけが聞こえた。
 妙な跋の悪さに踵を返そうと思ったが、貴沙烙一人をここに残していくのは不味い気がする。獣がでるかもしれないし、もしかしたら生き残りの兵士がどこかに潜んでいるかもしれない。貴沙烙みたいなやつでも、死なれたら後味が悪かった。
「しょうがないな」
 少し離れた場所に腰を降ろし、俺は、貴沙烙が目覚めるのを待つことにした。

 

end.
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