もうひとつ

 


 することもないので、強くなる一方の雨足に耳を傾ける。
 枝葉の傘越しに淡い空を見上げていると、ふいに、戦帰りに拾った薬売りの少年が浮かび上がった。ズキン、と鈍い痛みが頭をゆさぶる。彼は危険だといった元堅や貴沙烙。貴沙烙と少年との、命を命とも思わないような会話。先身しただけで、どうにも出来なかった俺自身…………。
 くしゃみをした時に、汗をかいていると気がついた。
 背中が湿っていて、前髪が額に張付いている。雨の湿気もあって、ぶるりと体が震えた。
 横目で見てみるが、貴沙烙はまだ起きない。俺が起こせば手っ取り早いんだろうけど、殴った一件もあるし、俺から声をかけたくない。立てた膝を引き寄せ、その上に顎を乗せた。
「さっさと起きろよ」
 ぼやいて、幹に背中を預ける。
 油断すると、また、あの事件についてあれこれ悩んでしまいそうだ。
 とにかく城に戻ってから、いまさら悔やんでも仕方がない、そう自らに言い聞かせて瞼を閉じる。それからどれほど経ったころだろうか。右の頬に誰かの手を感じて、肩がすくんだ。
 しかし瞼は持ち上がらない。気だるくて動きたくなかった。
 頭上からくすりという含み笑いが漏れ聞こえる。
「ん……」
 あやすように首筋が撫でられた。
 爪でなぞられると、ゾクリとした何かが背筋を辿る。
 奇妙に心地良い浮遊感に、体の疲れも何もかもが引っ張られて、どこかへ行ってしまいそうだった。
 しかし、撫でてくれていた指先は、ふいに離れていった。直後、
「痛っ」
 ギュ、と頬がつねられた。
 仰天して飛び起きるが、犯人らしき人影はない。
 目を白黒させていると、幹の向こうからクスクスと笑い声が聞こえた。
「起きたのか」
 貴沙烙は、俺がうとうとしてしまう前と同じ位置で、同じように木にもたれかかっていた。
「なんて顔をしてるんだか」もたれながら、彼が呟く。
 冷たい口調だが、かすかに呆れが混じっている。
 優雅に立ち上がり、貴沙烙はしばし小ぶりの雨が降り注ぐ森を見渡したが、躊躇うことなく雨の中に進みでた。
「顔を顰めたまま眠るなんて、器用な奴だな」
 そのまま立ち去るのかと思いきや、振り向いてそんなことをいう。
 小雨の中を歩く赤い衣の男を見ていると、まだヒリヒリ痛む頬に手が伸びた。
「なんだよ。貴沙烙……?」
 とぼけているだけで、この痛みは彼によるものなのだろうか。
 ワケがわからないまま置いてきぼりにされて、どれほど経った頃か。遠くから元堅の呼び声がして、慌てて、腰をあげた。

 

end.

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