「ぬかるんでるな」
 うんざりと貴沙烙が呟いた時に、片足がずり落ちた。
「大将?!」仲間たちの悲鳴が後に続く。貴沙烙と元堅が肩越しに振り返ろうとするのが見えたが、それ以降は何が何だかわからなかった。枝や岩に引っかかれながら落ち続けて、最後に腰を打ち付ける。
「つぅ〜〜……」
 前のめりになって苦痛を耐えていると、頭上から会話が聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
「足を滑らせちまったみたいです」
 生理的に浮かんだ涙を、こぼさないように注意しながら顔をあげる。元堅や貴沙烙、仲間たちが崖下に落ちた俺を覗き込んでいた。
「馬鹿かお前は」
 貴沙烙が、視線が合うなり呆れと嫌味をたっぷり注いだ一言を寄越してくる。
 引き攣った笑いを返していると、彼を押し退けて、心配でたまらないという顔をした元堅が身を乗り出してきた。「怪我は?!」
「大丈夫だ」
 苦笑まじりの返答だが、安心したらしい。
 胸を撫で下ろし、仲間たちにロープの手配を命じている。
 あとしばらくしたら、引き上げてもらえそうだ。打ち付けた衝撃から立ち直った俺は、口を閉ざした貴沙烙の瞳が、辛辣な光を浮かべているのに気がついた。
 泥まみれの俺を見ながら、何か考えをめぐらせているのだろうか。綱は、と怒号を飛ばす元堅の声を後ろにして俺たちはしばらく見つめあい、貴沙烙はため息と共に視線を外した。
「悪いな」珍しく、本当にすまなさそうだ。
 しかし口元は意地悪く笑っているので、いやな感じがする。
「元堅、綱はいい。前進してくれ」
「ええ?!」
 貴沙烙を除く全員の悲鳴が重なった。
「なに考えてんだ?!」
 俺もそう思ったけれど、崖下からじゃ貴沙烙の背中しか見えなかった。
「この作戦は時間が勝負なんだ。前日の雨のせいでただでさえ歩みが遅いのに、全員で救出作業などしていたら出遅れてしまう」
「青樺はどうすんだ」
 ムスっとした声に返ったのは、悪戯っぽい音色だった。
「俺が面倒をみとく」
 ――それからしばらく、頭上で、ぼそぼそと頭上で相談がなされた。五分もしなかっただろう、貴沙烙が残ることになったようで、仲間たちが別れを告げているのが聞こえた。
 仲間たちの足音が消えても、貴沙烙からの呼びかけはない。適当な岩に腰掛けていたが、我慢がきかなくなって腰をあげた。
「きしゃらーくー……」
 口の左右に手のひらをつけて、叫ぶ。
 貴沙烙はひょっこりと顔を出した。してやったり、と言いたげに唇が吊り上がっている。
「わざとだな」小声での毒づきは聞こえなかったようで、貴沙烙は、ゆっくりと縄を垂らした。麻を繋ぎ合わせた頑丈そうな縄が、目の前まで零れてくる。手に取ると、貴沙烙が頷きを返した。
「木に結びつけた。昇れるな?」
「ああ、たぶん」
 ギュ、ギュ、と引っ張ると確かな手ごたえがある。雨で濡れた崖を登るのは、思ったよりもずっと大変だった。けれど、どうにか、登りきることができた。肩で呼吸をする俺を、貴沙烙は、優雅な拍手で出迎えた。
「ご苦労。といっても、お前が勝手に落ちたんだから自業自得だな」
「わかってるよ」
 雨と汗とで額に張り付く前髪を退ける。貴沙烙の癖っ毛も、雨で水分を含んでいた。
 疲れもあり、ぼうっと毛先を見ていたら、何時の間にか貴沙烙の手が頬にかけられている。慌てて距離を取ろうとするが、背中には、別の腕が回りこんでいた。
「あまり下がると、また落ちるぞ」
 苦笑いをして、鼻先に唇を落とす。かぁっと体温が上昇した。
「何、考えてんだ。早く元堅たちを追いかけないと」
「おや。冷たいな。大丈夫だ、今回の作戦はそれほど頭を使わない」
 びっくりして、抵抗をやめて見上げてしまう。貴沙烙は、今回は俺がいないと駄目だといってついて来たのだ。「ははっ」楽しげな笑い声が、男の口をついた。
「いやはや、今は絶好の好機だな。俺はこういうのを待ってたんだ」
「き、貴沙烙?」
「わからないか? 最近、青樺と二人だけで……いや、顔を合わせることすら少なかっただろう?」
 確かに、お互いの都合が合わなくて会っていなかった。廊下ですれ違うとか、食堂で顔だけ見るとか、それくらいだ。今日は、朝になり、出撃の準備をしているところに貴沙烙がやってきたのだ。
 今回の作戦には俺が必要だと真剣に語る傍らには、すでに、玉欄が控えている。元堅は二つ返事を返し、俺も、心強いと大きく頷いた。
「お、おまえ、まさか」
 信じられない。あれは、全部、俺と二人きりになるためだけの方便だったのか?
「当たりだ」
 貴沙烙は、これ以上ないほどに嬉しそうな顔をした。
「青樺は、戦について行くといって聞かないからな。しょうがないから、たまには、俺が折れてついてきてやったのさ」
「なっ、なっ、なっ……」
 言葉がうまく出てこない。その間にも両手が背中に回り、貴沙烙は、顔全体に口付けを振らせ始める。体の向きを変えられて、太い幹に背中を押し付けられた。このまま、ここでヤる気らしい。抵抗を示しても、動きを止める気配が全くない。何が何でもこの場でやりたいのか?
「ちょ、きしゃら、くっ」
 下肢を弄る指先が憎たらしい。久々に熱を煽られて、呼吸が思うようにできなくなってきた。どうやら体は心よりも先に諦めてしまったらしい。気がつけば、胸を押し留めていた両手は、貴沙烙の肩に縋り付いていた。貴沙烙の嬉しそうな微笑が、妙に鼻につく。
「…………馬鹿」
 諦めのため息と共に、半眼で睨む。貴沙烙は、やはり、嬉しそうだった。

 

end.

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