再戦に向けて!
「貴沙烙、援軍だ!」
絶望を吸い込んだ叫び声に、一同がギクリとした。
発したのは青軍大将、陶青樺だ。
朱色の着物が翻り、青樺の隣に馬が並んだ。騎乗するのは参謀役の貴沙烙だ。肩で息をするのは彼だけではない、降りそぼる雨が、確実に青軍全体の体力をこそぎ落としている。山の向こう側が海であり、特別に雨の多い地域だ。土地に馴れた相手方のが有利な戦ではあった。
ぶるるる、と、愛馬の玉蘭が鼻を鳴らした。被さるように貴沙烙が舌打ちする。
「クソッ。ついてないな。こっちはまだだと言うのに」
数秒の沈黙後、短く告げた。
「退却するぞ」
「ああ」
貴沙烙が傍らの伝令兵へと目配せする。
小柄で目のくぼんだ男だ。彼は怯えの混じった眼差しで頷いた。
「撤退!! 撤退命令がでたぞ――っっ!!」数秒後、男が軍の真ん中目掛けて馬を走らせた。愛馬を軽く走らせ、貴沙烙が兵士たちの尻を叩くべく怒号をかけた。
「ほら、いつまで矢を射っている! この風じゃ流されるだけだ、撤退するぞ!」
「元堅たちにも報せてくる!」
「頼む。討ち取られるなよ、青樺」
酷い土砂降りだ。馬ですら時折り体勢を崩して体が傾ぐ。
青樺は離れたところから元堅を見つけると、一直線に馬を走らせた。雨中に斬り合う音が響く。道中、青樺に気が付いた敵兵もあったが、青軍の兵士が代わりに斬り合った。
報せを聞くと、元堅は一瞬だけ驚いた顔をみせた。
だが、すぐに納得した顔で部下たちに号令をかける。部下も動揺はしなかった。薄々とした予感を感じていたのだろう。元堅の部隊は屈強な体格の兵士によって編成されるが、その彼らですら、雨で吸い込んだ衣服と鎧との重みに負けるかのように馬の上で前屈みになっているのだ。二日で攻略する予定が既に四日目。長期戦の構えではなかったので、兵士たちも限界だった。
「こういうことまで先見できればいいんだけどな……」
思わず、青樺が呟いたところで肩を叩かれた。元堅だ。
「おい、落ち込むな。常に勝ち続ける――まあ、それが理想だが現実はな。切り替えが大事だぜ」
「でも失敗は許されないだろ? 俺、今回はあまりに役に――」
「役に立たなかった、か」
「貴沙烙?!」
「様子を見に来た」
愛馬・玉欄は水滴塗れになっても美しかった。
戦場にはあまり似つかわしくない優雅な馬を駆り立てて、貴沙烙が青樺の隣にやってくる。
「大将殿。それを言ったら参謀役の立場がなくなるとは思わないか? 確かにこの三日は雨続きだ。雨でも勝てるだろうと俺は思ったんだがな」
ニカリと歯を見せたままでの皮肉だ。
口ごもる。その間に、彼は兵士たちを見回した。
「東の方は撤退を始めているぞ。ここもすぐに引き払ってくれ」
「ってことは、俺らが最後尾か。丁度いいな」
ニィッとする元堅に、貴沙烙は嫌そうに眉を顰めてみせる。敗走を開始した兵士たちに混ざって、馬を走らせた。貴沙烙は、やれやれ、といったニュアンスを込めて元堅と青樺を睨みつける。
「お前たちは先行してくれるとありがたい。どこの世界にどん尻を勤める大将がいるっていうんだ?」
「青軍らしくてイイじゃないか、なァ!」
苦笑しつつ、青樺が頷く。
「貴沙烙、先行っててくれよ。指示する人間が必要だろ?」
「喧嘩っ早い筋肉頭に、お人好しの大将を二人きりにするつもりはないぞ」
二度、三度と手綱を振って愛馬の速度をあげる。貴沙烙は当たり前のように告げた。
「俺に先を行って欲しいなら、お前たちごとだ。ほら、――撤退しろと言っているだろう! 馬を走らせろ!」
斬り合う兵士に向かって叫び、元堅へ視線を戻す。
「落ち合う場所は南東にある大木だ。しめ縄がしてあったやつだ。覚えているな」
「ああ。わかった」
ばしゃばしゃと泥を掻き揚げる蹄音が無数にある。
腰を持ち上げた姿勢のままで騎乗するのは苦しかったが、それを気にする場合ではなかった。少しも経たない内に、青樺が不安げに背後を見遣った。雨のせいで視界は悪い。苦々しく呟いた。
「追ってきてるな」
「だろうな。俺だったらこんなチャンスは逃さない」
他人事のようだ。青樺がもの言いたげに眉を寄せた。
「お前、たまにはいい事を言うと思ったら……。また、そういう遊びみたいな言い方をする。軍師だろ。みんなが心配じゃないのか」
「心配だぞ? 駒がいないと遊びにならないからな」
「……貴沙烙……。心配する場所が違うだろ!」
雨の中で、中腰になったままで馬を駆りつつ貴沙烙が背筋を仰け反らせた。くすんだ声で笑いだす。いささかヤケになったように見えるのは、敗走が少なからず彼の自尊心を傷つけるものであるからだろう。元堅は少しだけ痛ましいものを見る目を向けたが、青樺は、眉を怒らせて貴沙烙に食いついた。
「お前はどうしていつもそうなんだ! 本気なのか?!」
「熱くなるなよ。若造だなぁ、青樺は」
「ごまかすなッ」
手綱を振りつつ、叫ぶ。口の中に雨が入ったため、青樺が軽く咽こんだ。くすくすとして笑いつつ、貴沙烙が首を振る。そうして左目にかかっていた塗れた金髪を振り払った。
流した眼で射られて、青樺は続けようとした言葉を飲み込んだ。
「まあ、半分は冗談だ。――いい事とは?」
「え……?」
「たまにはいい事を言う、と、なかなか酷な評価をくれたじゃないか」
馬上なので体がゆさゆさと激しく動く。貴沙烙はその金髪を雨に濡らし、肩で息をして、中腰を保ったままで首を傾げた。余裕すら感じられる笑みが口角にある。
愛馬の速度を落としてまで青樺の隣に並んだ。
「言ってみろよ。大将殿が、どんな風に俺を酷い男と思っているのか気になるじゃないか」
「き、貴沙烙――」
歯に衣着せぬ物言いに青樺が言いよどむ。
堪らない、というように元堅が声を張り上げた。
「からかうのもいい加減にしとけよォ! 貴沙烙も苛つくのはわかるが、城に帰ってからにしてくれ。青樺もいちいち付き合わないっ」
衝撃を受けた顔で青樺が元堅の後姿を見る。
ふん、と、鼻腔でため息をついて貴沙烙が愛馬の速度をあげた。
「アイツに言われたらお終いだ。で、いつの間にか、しっかりどん尻を務めている我らが青軍大将殿は――」
「お、お前な。全然懲りてないじゃないか」
言ってから、青樺は短く悲鳴をあげた。すぐ横を矢が跳んで行ったからだ。
ジロリ。背後を睨みつけて、貴沙烙が低い声で告げた。
「この雨だ。まず当たらない。馬の速度をあげてくれ」
「他に兵士は?」
「いない。俺たちが最後だ」
確かに、前方に小さく馬の影が見えるだけだ。
追っ手の蹄音も聞こえない。貴沙烙が言っていた落ち合いの場所までまだ距離があるが、この分なら、速度さえ落とさなければ追いつかれない。馬の背中を撫でてから、青樺は手綱を振った。
「すまない、もう少し頑張ってくれ」
と、貴沙烙の隣に並ぶ。
不意に青樺は先ほどの元堅の言葉を思い出した。
「貴沙烙」
「何だ」
「苛立っているのか?」
「…………。だとしたら、どうなんだ?」
「どうって……。貴沙烙だけの責任じゃないと思う」
喋ると雨が口に入る。青樺はびしょ濡れの貴沙烙を見つめた。
「責任を感じているなら、だけどな。一人で背負い込むなんてやめろよ。ダメな時はどうしてもダメ。あるだろ、そういうの」
馬上なので、やり辛かった。相手も同じだ。舌を噛まないように注意しているのか、慎重な声が返ってきた。なるほどと青樺は思う。意識してみると、先ほどの貴沙烙の声はいつもよりも早口であったし、慎重さに欠けていた。
横目を青樺に向けてしばらく走る。
貴沙烙は、視線を前に戻すと同時に告げた。
「遊びにするなと言う割に、寛容だな。思わないのか? お前が遊び半分でいるからこういうことになるんだ、とか、色々あるだろうに」
「思わない。貴沙烙は戦には手を抜かないだろ」
僅かに貴沙烙が目を見開かせた。それでも前を見たままだったが。
「なぜそう思う?」
「遊びにこそ本気になるヤツだろ、貴沙烙って。作戦立てる時のあの生き生きした顔見てたら手を抜いてるなんて思えない」
青樺の本心だ。雨の中でも、しっかりと通っていった。
貴沙烙が再び横目で青樺を見た。
伺うような、確かめるような眼差しだ。そういう目をするということは、疑う気持ちがあるのだろう。青樺は一人で納得して手綱を振った。
「さっきの話だけど」
視界が開ける。森が終わった。
「俺と元堅を気遣ったんだろ? 一緒じゃないと先に行かないって言ったじゃないか。俺だって本当は、貴沙烙が悪いヤツじゃないってわかってるつもりだ……、さっきみたいなことは、冗談でも言って欲しくないけどな」
雨に濡れた草原を下りながら、青樺。障害物が無くなったことで、先を走る青軍の馬が何十頭と見えた。後姿が雨で煙っている。
「はは、ははは」
空笑いのような声を立てて、貴沙烙が前屈みになった。
「青樺は男を惑わす術を心得ているな」
「貴沙烙。俺は真面目に話してたつもりだぞ」
半眼で見遣ると、貴沙烙は片手でわかっているという仕草をした。
「そんなに慰めようと必死にならないでくれ。俺に気があるのかと思うじゃないか」
「お前、……ふざけているだろう」
呆れ半分、怒り半分でうめく。
貴沙烙は軽く笑うだけだ。だが、いささか気が晴れたとでもいうように、威勢良く手綱を振った。愛馬が応えるようにして前足を振りあげ、土を抉りながら進んでいった。
あっという間に先に進んだ貴沙烙に面を喰らっていると、元堅が、ぽそりとうめいた。
「あいつ、やる気だしたみてーじゃねえか」
「やる気がなかったのか?」
驚きつつ、どんどんと小さくなっていく赤い衣を見つめる。元堅は深々と頷いた。青樺は貴沙烙という男がわからない時が多々あるが――、どうやら、今回も、そのようだ。
貴沙烙に再び合流したのは、しめ縄のされた大木の下だった。落ち合いの場所だ。小ぶりになった雨の中、彼は青樺と目が合うなり告げた。
「体勢を立て直すぞ。援軍には物資の増援も持たせるよう頼んである。それで、俺たちが退却したと思っている馬鹿どもを不意打ちする」
「し、城に戻らないのか?」
「負けたままでは帰れないな」
参謀の目をして、貴沙烙がにやりとする。
それを見て青樺はしみじみとしていた。
「なるほど。確かに、切り替えが大事なんだな」
「切り替え?」
「って、元堅が言ってた」
指で仲間たちと落ち合う元堅を指差す。貴沙烙の両目が白々とした。
「あの筋肉男の助言ではなぁ。青樺、そんなことより俺が甘く囁いてやるぞ? もっといい助言だ」
「いらない。どうせ妖しい方面だろ」
「ほーう。どんなものを想像してるんだ? 青樺」
水を得た魚のように貴沙烙がニヤニヤとする。
「お前なぁ……」うんざりとする間に、元堅がやってきた。
「おい、今なぁんか聞こえたぞ?!」
「うん? 何でもないぞ。なぁ、青樺?」
貴沙烙が優雅に唇に片手を当てる。青軍は誰も彼もびしょ濡れだ。だが、びしょ濡れの貴沙烙がする仕草は何故だか艶がありサマになっていた。
瞳を流し、じっと熱を込めて見つめる。
「あ、ああ……」その眼差しから逃れるため、明後日を見上げつつ、青樺は確信する。とにかく、この参謀はもういつもの皮肉を言えるくらいに活力を取り戻したのだ。
次の勝負で、あの町も攻略できるに違いない。
end.
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