暮空
「おいで」
にっこりと笑顔で言われたものだから、俺は、人参を吊るされた馬みたいに、一途に貴沙烙の後についていった。
大臣となった貴沙烙は多忙なので、ここ最近は話すどころか顔を合わせてもいなかった。
俺の教育係りについた貴沙烙馴染みの爺さんというのは、とても厳しい人で、夜更かしは許してくれなかった。一段と帰りが遅くなった貴沙烙とは、時間が合わなくなる。最後に彼を見たのは、五日前の夕食の席以来で、あの時は、隣国が不穏な動きをしていると話してくれた。
今日の分の勉強を終え、部屋で寝転んでいたら、貴沙烙は突然にやってきた。
時刻は夜ではない。夕方だが、貴沙烙が帰って来るには早すぎる。しかも、彼の服に木の葉がついているので、正門からやってきたというわけではないようだ。
目を瞬かせている内に、貴沙烙は、鮮やかな微笑を載せて先ほどの台詞を言ったのだった。
「こっちだ。爺に見つかると、うるさいからな」
部屋を出て廊下を進み、階段を降りる。曲り角の向こうから足音がすると、貴沙烙は踵を返した。適当な小部屋に入り、窓を開け、ヒョイと身軽な動作で枠に足をかける。屋敷裏の林が、俺たちの視界いっぱいに広がっていた。
ふわりと窓から飛び降り、未だ枠に足を乗せたままの俺に手を伸ばす。
自分で飛び降りるつもりだったけれど、貴沙烙は、楽しそうに微笑んで俺の両脇に手を差し込んだ。そのまま、軽々と持ち上げて、大地に降ろす。
女みたいな扱いで、俺は、なんだか面白くなかった。
「それくらい、俺だってできる」
心持ち拗ねた口調でぼやいてみせると、くすっと鼻で笑われてしまった。
「あのな――」
「いいじゃないか。久しぶりの再会に、ちょっとくらいはしゃいでみても」
目を見開いて貴沙烙を見上げると、彼も俺を見ていた。
ニヤッと口角を上げているのをみるに、この上機嫌の裏には何かがあるらしい。
「貴沙烙……?」
「警戒するなよ。ほら、ついてこい。せっかく抜け出したんだから、楽しませてくれ」
「抜け出した? 貴沙烙、この前、今は大切な時だって……」
「そう。隣国が怪しい動きをしてる。戦争になるかもな」
何でもないことのように言い捨て、道を塞いでいた前方の枝を退かす。
「戦争だって?」俺が鋭い声音を出したからか、貴沙烙は、苦笑じみたため息をついた。
「確定じゃあない。焦るなよ」
「焦るな、って。戦争だろ?! 焦らずにいられるわけ――」
「そんなに俺が心配か?」
「なっ!」
不意打ちのように振り向き、悪戯っぽく耳元に唇を寄せてきた。カッと顔に熱が集中する。思わず、平手で貴沙烙の頭を叩いていた。「馬鹿っ!」
「ハハハッ」
堪えた様子もなく楽しげな笑い声をあげ、さりげなく肩に手を回してきた。
「もうすぐ、木々が開けた場所がある。そこでコレでもどうだ」
「城から持ち出したのか?」
貴沙烙が腰を捻ると、紐で括りつけられた瓢箪があった。
「せっかくの逢瀬だというのに、酒もないのでは味気ない」
満足そうに頷くわりには、歩調が少しだけ速さを増した。木々の狭間から伸びる夕明かりは、段々と低くなっていて、地平線に消えようとしている。貴沙烙は、夕没前に目的地につきたいみたいだ。
大人しく貴沙烙に歩調を合わせて、どれほど経った頃か。
貴沙烙が、ほう、と感慨深げなため息をこぼした。
「青樺、見てみろ」
反射的に貴沙烙を見上げてしまった俺の顎を掴み、クイと右向きに逸らせる。大地が急激に傾斜しているために、そこの一帯には木々が生えていなかった。都と、遠くに山間が見える。そして、壮麗な夕日が、山々にめりこむようにして輝いていた。
絵画を眺めているかのように、よくできた景色だ。感嘆の吐息が知らずに口をついた。
「こんな景色が見れるのか」
貴沙烙の屋敷に住むようになってから、ずいぶん経ったけれどこの場所は全く知らなかった。
「気に入りの場所さ。俺が小さい頃からの、な」
心なしか、声音が自慢げだ。
夕日に向き直った貴沙烙は、腰を折って、急斜面に足を投げ出した。
目だけで来いと促され、俺も続く。並んで座ると、当然のように腰に腕がからみついた。肩と肩がぶつかる距離まで近付く。頬にふわっとしたものが触れた。
「子供の時に爺やに教えてもらったんだ。俺がここを人に教えるのは、初めてだ」
「へえ」
自分のコトながら、単純だ。
貴沙烙が小さかった頃から来ていた秘密の場所に、初めてつれて来て貰えたなんて。喜びが顔に出ていたのか、貴沙烙は上機嫌に喉を鳴らした。
「お前は、本当に可愛いな」
ポンポンと頭を叩かれてむかっときたが、貴沙烙が神妙な顔をしていたので、文句を言うことができなかった。黙り込む俺を不審に思ったのか、貴沙烙が覗き込んでくる。
「どうかしたか? 大人しいじゃないか」
「ふん」
顎を明後日の方へと向けると、貴沙烙の含み笑いが聞こえる。けれど腰を引き寄せる腕にさらに力がかかって、俺は、強制的に貴沙烙にもたれかかる恰好になった。
「きしゃら――」
振り解こうとするけど、力は存外に強い。
今度こそ文句を言おうとして、夕日を見つめる貴沙烙が、真剣な顔をしていることに気がついた。何かを考えている時の顔だ。また口篭もっていると、貴沙烙の顔が振り向いて「ん?」と唇だけで囁いた。
「貴沙烙……?」
なんだか、今日の彼は沈んでいるみたいだ。
「何か悩みでもあるのか?」
貴沙烙は、呆気に取られた顔をしてすぐに、背を仰け反らせて噴出した。
「お前に言われるとは! なんてことだ」
「き、貴沙烙?」
普段の彼らしくない豪快な笑い方だった。
オロオロしている内に、貴沙烙は笑いを潜ませて、両手で俺を抱きこんできた。
「俺らしくないな」
「え?」
「青樺に見抜かれるなんてな。そんなに、今の俺はおかしいか?」
「おかしくはないと思うけど……」
躊躇いがちに告げると、彼はくすっと笑って、冗談でもいうように肩を竦めさせた。
「おかしいさ。戦争という単語を聞いても、あまり、嬉しくないんだ」
「……お前、今まで嬉しかったのか……」
半眼で睨むけれど、貴沙烙は全く意に介せずに抱き締めてきた。
体が引き上げられていて、いつの間にか、貴沙烙の膝の上に座っている。向かい合う形になってしまって、俺には夕日は見えないけれど、貴沙烙に差し掛かる朱色の光から存在が感じ取れた。
少しばかりクセのついた髪が、綺麗な紅色の光を反射している。真っ赤な衣はいつも以上に赤くて、貴沙烙の肌も赤っぽくて、この世のものではないような美しさがあった。
体を離し、貴沙烙は眩しそうに目を細めて俺を見る。赤色が滲んだ指先が伸びてきて、俺の前髪を掻き揚げた。貴沙烙の瞳は、酒に酔った奴がするような色をしていた。
「戦になって、離れるんじゃないかと思うと、少しだけつらい」
前髪をくしゃりと握って、そんなことを言う。
露になった額に口付けを落とす貴沙烙の動作は、いやに艶っぽい。夕明かりが艶度を上げるのに一役買っていた。
「青樺。お前も、戦になったらつらいだろ?」
口付けは唇にも振ってくる。触れるだけかと思ったら、離れる間際に唇を舐められた。貴沙烙の真摯な眼差しがすぐそこにある。背中にかかる夕日の明りのせいか、やたらと、体が熱い。
「ああ。俺も、つらい」
「戦に駆り出されるからか? 誰かが悲しんだり、死んだりするからか?」
「それもある」
「それも? 他には何があるんだ」
「貴沙烙と同じだよ」
尋問されてる気分になってきたので、いささか突っぱねるように応えてやる。
貴沙烙は、ニィッと意地悪く唇を吊り上げた。意地の悪い魂胆が見えた気がして、眉を顰めていると、貴沙烙の腕が服に潜り込んでくる。
「やめろよ」呆れながらどかそうとするが、貴沙烙は、抗うように俺の腕を掴み返した。
「俺と同じなんだろ?」
熱っぽい音色に、ドキリと心が震える。
「俺は、青樺と離れるのがつらい」だがわかるだろう、と静かに声が繋がった。
「お前を守るために戦場に赴くさ。ただ、その前に、じっくり体を味わいたいと思っていたんだ……」
「な、貴沙烙」
やっと、言いたいことがわかった。
貴沙烙は、口をパクパクさせる俺を楽しげに見つめている。
「俺と同じなんだろ? 嬉しいな」
「ちょ、まて、それとこれは……っ、き、貴沙烙、やだっ」
嘲弄するかのように手足を絡め取られ、やがて、俺は言葉もろくに発することができなくなった。貴沙烙がくすくすと笑っている。機嫌がいいようだった。
「お前、そろそろ俺の秘書になってみるか?」
ぐったりした俺を抱えて帰る道すがら、貴沙烙は、どうでもよさそうに――けれど、眼だけは真摯な光を灯して――そんなことを言った。
end.
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