偶然に、であった

 


 その女性は、艶やかな黒髪が印象的だった。
 たんぽぽの綿毛のような唇で、視線を移動させるさまは、運河に流れる水のように滑やかだ。目を細めると、黒っぽい衣装と相成って妖艶な色気が醸し出される。
 道行く男は振り返り、道行く女は羨ましげな眼差しを向ける。彼らの視線は、彼女と、彼女の傍らにいる青年に向けられていた。青年も、女に負けず劣らず美しい容姿をしていたのだ。
 赤い衣を着込んだ彼は、どこか遠い眼差しで家々の屋根を見つめていた。
「貴沙烙さまったら、考えごと?」
 鈴のような声音に若干の不機嫌を滲ませて、女が優雅に袖をあげる。
 頬に指をかけられて、貴沙烙はクスリと悪戯げに微笑んだ。
「お前のことを考えていたのさ」
「まあ。お上手だこと」
「嬉しくないのか?」
「うふふ。嬉しいに決まっているではありませんか」
 貴沙烙の微笑が深くなり、頬にかかった手の平に自らの手を重ねた。
「ここでなさるの?」
 怪しさを増した貴沙烙の瞳を覗きこんで、女が首を傾げる。
 ニッコリした微笑を返されて、女は、肉厚の唇から舌を差し出した。その仕草は、昼間に、往来の真ん中でしているとは思えないほどに淫らなものだった。
「いけないお方ね……」
 楽しげに囁いて、屈んだ貴沙烙の唇をうっそりと舐め上げる。
 突如として濃厚な口付けを始めた美しい二人組みに、大通りを歩いていた人々は仰天してどよめきをあげた。彼らの声量は僅かだが、道の真ん中にいる貴沙烙たちには、確実に聞こえている。二人は一向に行為をやめず、また、その場を退こうともしなかった。
 足並みを乱した人々は、それでも、なんとか立ち直ってそそくさとその場を去ってゆく。けれどこういう時には好色な眼差しを向ける者があるものだ。
「スゲェ」茶色い買い物袋を抱えた少年は、そんな分類に納まってしまう人柄だった。
「あれって貴沙烙だよな。よくやるぜ」
「朱緋真。もう、行かないか……?」
 一方、傍らの青年は、足早に逃げる方に収まる人柄だった。
 キョロキョロと辺りを盛んに見回し、射辛そうに眉を顰めている。彼の頬も、朱緋真の頬も、少しばかり朱色に染まっていた。
「おー。青樺、ほら見てみろよ。貴沙烙すげーぞ。あの美人サンも凄いけどなっ」
 無邪気に指差す朱緋真に、青樺はキツめに声をかけた。
「趣味が悪いぞ。ほら、行こう」
「え〜。いいじゃん!」
「ダメだ」
 明快に言い捨て、朱緋真の襟首を掴む。
 無理やり引き摺られる少年は、慌てて抗議の悲鳴をあげた。
「道の真ん中だぜ?! 絶対、見て欲しいんだよ!」
「当たり」
 貴沙烙の声がしたので、二人はギョッとして振り返った。
 黒い衣を纏った美女と赤い衣の美男子が、くすくす笑いながら自分たちを見つめている。青樺は、跋が悪くなってすぐに朱緋真を解放した。当の少年は、構わずにジロジロと無遠慮な視線を彼らに向けている。
「貴沙烙のこれ?」朱緋真が小指を立てた。
 二人は妖しげに視線を交わらせる。
「こちらは、貴沙烙さまのご友人かしら」
「そんなところかな。お前たちは、買い物か?」
「ああ。朱緋真が、饅頭を食いたいって騒ぐから」
 一同の視線が朱緋真の抱える紙袋へと向かった。美女の前で食い意地が張っていると思われるのは、さすがの朱緋真も勘弁して欲しかったらしい。言い訳っぽい呟きが零れでた。
「城にあるのは、ぜんぶ宝満が食っちまうんだもん」
「あいつか。今日も食堂にいるのか?」
 常に不敵に構えている貴沙烙が、どこかげっそりとしたように囁くものだから、朱緋真はニヤッと唇を吊り上げた。
「さては、このところ都にばっか行く理由はそれだな? ホントに宝満が嫌いなんだな」
「食べ物をそこらじゅうに食い散らかすし、公共の場をなんだと思っているんだか」
「往来のど真ん中でいちゃついてるお前が言ってもな」
「おや、青樺。焼きもちか?」
「ンなわけないだろ」
 疲労を滲ませたため息をついたのがいけなかったのか、貴沙烙はからかうような微笑を浮かべて顔を覗き込んできた。近付いた分だけ、青樺は顔を仰け反らせる。
 貴沙烙の唇はまだ潤いを残していた。ぬらっとした光を放っている。
 思わず、彼の背後で笑みを湛えている美女を横目で見てしまって、青樺の頬に赤味が差した。
「しゅ、朱緋真。もう行こう。こんなとこに長居してもしようがないぞ」
 いささか甲高い声で傍らの少年に呼びかける。
「そうだなァ。じゃあ」
 こだわりもなく朱緋真が頷き、気楽に貴沙烙と美女に手を振った。
 先に歩き出した朱緋真を青樺が追いかけた。
「じゃあなっ」「なかよく、おふたりさーん」
 くすくす笑いながら踵を返しかけた貴沙烙だが、足をとめた。
 肩越しに見えた青樺の後ろ姿に思いとどまったのだ。前方から大男がやってきているのだが、俯いて小走りしている青樺には、彼が見えていないらしい。
「不注意だぞ」
 腕を掴んで引き寄せる。
 それだけの筈だったのに、腕を掴んだ途端、青樺が大げさに体を引いたので、体勢を崩してしまった。大きく見開かれた二人の視線が、刹那に交差する。
「うわっ、馬鹿!」
 後ろ倒しになりかけ、青樺は焦るあまり、指に当たった赤い衣に縋りついた。
 しかし後ろ頭を地面にぶつける結果になり、貴沙烙は、青樺を跨ぐような形になりながら、赤い裾を地面につけて膝をつけてしまっている。
「つう〜〜」
 後頭部を直撃した痛みから逃れるように、青樺は即座に上半身を起こした。
 そうしたら今度は貴沙烙の顔に額をぶつけて、二人はそろって呻き声をたてた。
「い、一体なにが起きたんだよ」
「お前なぁ……。人の親切を」
 青樺は額を抑えて、貴沙烙は口元を抑えて、互いを恨めしげに睨みつけている。
 と、反射的に額に手をやっていた青樺は、湿った感触を指先に感じてはっと息を飲んだ。見る見る、顔中が真っ赤に染まる。
「どうした?」
 あまりに如実な変化だったので、貴沙烙の眉が跳ね上がった。
「額をぶつけたようには見えなかったが」
 額を抑える手に自らの指を乗せるが、どうだろう、触れた瞬間ビクリ背中が脈打った。貴沙烙はますます怪訝そうな顔をして、青樺を覗き込む。朱緋真も、くだんの女も、さらにはいくばかの通行人も、何事かと二人の周囲に集まっていた。
「だいじょうぶだ」
 強張った声音で、ぶっきらぼうに宣言する。
 指を無下に振り払い、立ち上がると、貴沙烙もそれに続いた。
「何やってんだよ」
 朱緋真にこづかれる彼は、未だに顔を赤くしている。
 優雅な仕草で埃を払う貴沙烙は、横目で赤らんだ顔を見つめていたが、ふ、と自らの唇に人差し指と中指とをかけた。
「貴沙烙さま。大丈夫でございますか?」
 音もなく傍らに寄り添った女が、気遣うように声をかける。
「確かに、触れたな」彼女の耳を、やっと聞こえるか、聞こえないか程度の小声が掠めていった。
「えっ?」
 聞き返した時には、神妙な表情が引っ込んでいて、貴沙烙はおもちゃを見つけた子供のように、らんらんと瞳を輝かせていた。
「すまない。食事は、またの機会にしよう」
「あら。残念」
 美しい顔が、名残惜しそうに色を曇らせる。貴沙烙は優雅に笑い、女の頬を軽く吸い上げた。
「心配するな。埋め合わせは、必ず」
 並の女ならうっとりするような微笑を浮かべて、着物を翻す。貴沙烙は大股に歩いて、すぐに青樺と朱緋真に追いついた。
「待てよ」
 二人の間に割り入り、青樺の肩に腕をかける。朱緋真が小さな悲鳴をあげた。
「貴沙烙っ?」
「なっ。な、なんだよ。お前。あの人は?」
「彼女とは、また今度だ。それより青樺、お前もちょっとは可愛いトコがあるじゃないか」
 意味ありげな含み笑いを浮かべ、人差し指で額を突付く。顔の朱色は消えかけていたのだが、そのせいで、鮮やかな朱色に逆戻りしてしまった。絶句した青樺の耳を、微かな含み笑いが掠めていく。
 朱緋真は二人を見比べ、不満そうに頬を膨らませた。
「二人だけで楽しそうにするなよ。青樺、何の話?」
「俺はまったく楽しくない……」
「そうか? 俺は、楽しいぞ」
「質問に答えろよっ。ずるいぞ二人とも〜〜!」
 地団太を踏む少年にかける言葉が見つからず、視線で助け舟を求めた青樺だが、傍らの青年は愉快そうに目を細めているだけで動き気配が微塵も見当たらない。
「せいかぁ――っ」
 服をグイグイと引っ張られながら、青樺は、ひときわ重いため息をついた。
 頬の桃色が城に帰るまでに引いていれば良い、と、それが唯一の願いである。

 

end.

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