やみねこうたいねこ






 闇は意思を持っている。
 白い手のひらが浮かび上がる。その表面をちろちろと水が舐めていく。耳と尾を黒く染めた猫は、チロと舌を出して濡れた産毛を舐めた。
「それがどうしたというのだ。驚くことでもあるまい」
 振り返れば、長髪の猫が水辺でくつろいでいた。上半身は裸だ。自らの赤毛を水につけないように、浅瀬であぐらを掻いたまま紐で縛り上げようとしている。
「……お前、意外に不器用なのか」
「違う。さっきので、絡まっているんだ」
 猫は目を細める。先ほど、魔物に襲われていた赤毛の猫を助けたばかりだ。今にも頭からかじられようとしていたところで、リークスの魔術は魔物の頭部を粉砕した。
 その結果、びしゃびしゃと飛び散ったものは助太刀に入った猫の顔面を殴り、素直に下にボトボト落ちたものは赤毛の猫を直撃したのだ。
 助けられたはずの猫は、振りかえるなりこう言った。
「リークス。来てくれたのか。……でも、酷いぞ」
 顔中が真っ赤で、髪に肉片らしきものまでつけている。その言葉に怒りを覚えつつも、リークスは化け物の血を被っても平然としている猫の度胸にわずかに感服した。
 なので、近隣にある水辺の場所を教えてやった。
 赤い髪の猫――、シュイは、当然のようにリークスも来るだろうと言った。自分も血を被ったので、リークスが断わる理由もなかった。
(それが逆に腹にくるな)
 どうでもよいことだと思いつつ、リークスは腕を舐め終えた。
 山林へと繋がっていく道の途中だ。
 川の枝が、いびつな大地の形で無理に歪まされているため場所がある。ここに水だまりが出来上がる。雄猫ふたりが腰をおろすと、それだけで窮屈だ。
「リークス。君もこちらにくればいい。そんな水の量じゃ、汚れが落ちないだろう」
 猫は鋭くシュイを睨みつけた。
「なら、お前がどけ。私の水場だ」
「なぜ? リークスは、わたしのためにこの水場を教えてくれたんだろう? それなら、ここに浸かる権利があるはずだ」
「…………」
 黒い耳が頭髪にくっつくほど足元に向けて傾いた。
 シュイは、静かな瞳でリークスを見返した。
 唇はくすりと悪戯っぽく微笑む。整えた髪を水に浸し、ゆっくりと洗いながらも声をかけてきた。
「気分を悪くしたかい? それなら、すまないけど。でももう駄目だと思ったときに君がきてくれた。嬉しかったんだ」
「……もう森にくるな。研究の邪魔だ」
 三つ網を首に巻き付けて、水溜まりに腰をおろす。
 シュイは面白がるような目をした。
「君は不思議なことをするね。首、苦しくないのかい?」
「こうした方が邪魔でない」
「リークスは、器用なんだね」
 楽しいことを見つけた。そう言わんばかりの声と顔で、シュイが小首を傾げてみせる。リークスは面を食らってシュイを見返した。
「馬鹿にしているのか」
「なぜそう思うんだい。そんなことはないよ。これっぽっちも」
「…………」
 シュイは不思議な声をしている。
 聴く者を穏やかにさせるような、撫でるような、心地のよい響きだ。目の前の猫に妻がいることを思い出して、リークスは鼻を鳴らした。
「けっこうなことじゃないか」
「リークス。髪が濡れてしまうよ」
「いいんだ。ほどく」
「そうなのかい?」
 フン、と、鼻腔でため息をついてリークスは長髪を解いた。足の爪先にくっ付くほどの長さだ。
 自然と、狭い水溜まりの中でシュイの手元まで頭髪が漂った。シュイは、まじまじとリークスの髪の毛を見下ろした。そうして、自分のものを一房取り出してみる。
「……何をしている」
 完全に厭きれて、リークスが尋ねた。
「いや、どっちのが艶があるかと思って」
 馬鹿か? 胸中だけで呟いて、リークスは手早く汚れを落とした。水に濡れた髪は、指で梳いたあとで蝶々結びのような形にしてまとめておく。
「うーん。よくわからないな。耳と尾は、君のが艶があってきれいなんだけど」
「…………なに?」
 聞き取れた気がしたが、リークスは念のために尋ねた。
 シュイは柔らかい笑みを浮かべていた。緑色の瞳は、陰の月明かりを受けて清らかな水の流れを写し取っている。きらきら、揺れ動いて見えて黒猫は固唾を呑んだ。
「きれいじゃないか。わたしより、リークスのものの方が」
 耳と尾を褒める。その行為が、猫にとってどのような意味があるのか。世間を知らず、研究に打ち込むリークスでもおぼろげに照れるほどのことだ。
「どこがだ。シュイこそ――」
 綺麗な、赤い髪をしている。それに耳の色もかわいい。
 言いかけて、しかしリークスは途中でやめた。あほらしくなってきたからだ。ドクドクと脈打つ心臓が心底から憎らしく思えてくる。いっそ、なければ良いと思うほどだ。
 リークスが思考を断ち切ろうとする中で、シュイは唐突に話を戻した。暗くなった森を見上げながら、呟く。
「リークス。闇は、本当に意思を持っているのかい」
「……ん? ああ、そうだ。常識だな」
 わざと水面に腕を叩きつける。水音がたって、水面が荒れると逆に自らのこころは鎮まるように感じた。リークスはシュイを睨んだ。
「なんだ。興味があるのか」
「いや。……君の家の周りは、よく魔物がでると思ったんだ」
「あそこは昔からああだ。魔術的なものが行いやすい。闇もそれを感じ取っているのだ……」
「魔物がいるから、魔術が行いやすいのではなくてかい?」
「…………」
 リークスは違った意味でもってシュイを睨む。
「そうだ。お前も少しは頭が働くようだな。あそこはそうした力を持っている……、それは魔物とは関係ない。闇は力に寄せられて好んで徘徊しているに過ぎない」
 緑色の瞳は鋭さを増した。
「リークス。今の住処は危険じゃないのか」
「なぜだ。私は魔物如きに負けん。闇は意思を持っているが、実態は持っていない。私には勝てない」
「そうじゃない。ちがう。リークス。予感がするんだ」
「付き合いきれないな。その次にはなんだ? 藍閃に来いと言うのか?」
 フゥ。ため息と共に、リークスは腰を持ち上げた。
 ぱしゃぱしゃと全身に改めて水をかける。シュイは、物言いたげに眉根を寄せたが、したがった。二匹は、しばらく後には川からあがって森の中に立っていた。
「リークス。わたしは、君を迎い入れたいんだ」
「…………」
 黒猫が尾をゆらりとさせる。
 シュイは、もどかしげに両腕を広げた。
「聴いて欲しいものがある。また、会おう」
「聞く? 何をだ」
「そのときの楽しみにしてくれ」
 悪戯っぽく囁いて、シュイは身を翻した。
 尾を真っ直ぐに立てて、森の中へと消えていく。尾が月明かりに当たると先端だけが光る。
  外灯のようだ、と、リークスは頭の片隅で呟いた。うたがとても上手だと、リークスがシュイの特技を知るのは数日後の話だ。
  住処へと帰りながら、リークスは脳裏で嘲笑した。
(ばかな。予感? ……あの場所が不吉だとでもいうのか)
 おまえは予言師か? からかうように囁くと、それだけでシュイに勝てた気がして楽しくなった。真っ黒い尾を一振りして、リークスは森の中へと吸い込まれていった。



end.

** もどる