桜の日和
「コノエ!」
呼ばれて、猫は足を止めた。
真っ先に見えたのは小豆色の衣装だった。昔のものだそうだが、その光沢は艶やかで年代を感じさせない。尾が独りでにパタリと揺れるのを感じながらも、コノエは、鬱陶しそうに眉根を寄せた。
「なんだよ、バルド。また追加か?」
「違う。ゲンさんにハーブをもらう約束になってたんだ」
「……? 方向、違うんじゃないか?」
コノエはトキノの商店に向かう途中だ。
揺らめいていた尾が動きを止める。バルドは、苦笑しながら後ろ頭を掻いた。
「いやなのか。途中まででも一緒にいたくないとか?」
「そんなことはないけど……」
また、宿の受付を無人にしているのだ。
半眼になりつつも、コノエは横に並んだバルドを見上げた。虎縞の耳の先は丸くなっていて、風を真正面で受けるのがイヤなのか正面をずらしてある。同じように、自分も耳を横向きにさせながら、コノエは鼻腔を膨らませた。リークスの一件が終わってから、二度目の春になる。
宿屋を手伝うようになってからは、一度目だ。
深く息を吸えば、花の香りが四肢にまで染み込むようだ。コノエは目を伏せる。露天の主人たちが何度か声をかけてきた。その一つ一つに向けてバルドが手を振る。
「今度は宿にも泊まってくれよ。とびきりのごちそうサービスしてやるぜ」
さらさらと頬の産毛を撫でられるようだ。バルドの発する低音が耳をくすぐる。
春の香りに目を細めたところで、ふと、コノエはバルドを見上げた。分かれ道は過ぎたはず。一緒にトキノのところまで来るつもりなのか。
「なんだよ。バルド、ゲンさんは?」
「もちろん、行くぜ」
「……トキノのとこにも寄ってくつもりなのか」
「ああ。そうだな、それもいいな。コノエの荷物も持ってやるよ」
奇妙な心地でコノエは眉を顰めた。買い物はするが、しかし、取っ手のとれた鍋の代用品を買いにいくだけだ。鍋も一人で持てないと思われているのか。訝しげな眼差しの意味に気付いたはずだったが、バルドはニヤリとするだけでコノエの眼差しには答えなかった。ぼそり、低い声でコノエがうめく。
「変なやつ」
「いいじゃねーかよ」
宿は放っておいていいのか。
とか、そもそも鍋の取っ手を壊したのはバルドだろ、とか、今更の文句が口を突いてでていきそうだったがコノエは黙ることにした。ささくれかけた気持ちが、あっさりと滑らかに整えられるくらいに春の陽気は温かで心地のよいものだった。
「コノエ! あれ、どうしたの? 何か買い足しとかかな」
目的の商店では、トキノが店番をしていた。
コノエとバルドに気がつくと耳をピンとたてる。バルドも片手をあげて挨拶をした。
「トキノ。鍋壊しちゃったんだけど、この前、いい調理品が手に入ったとか……」
「ああ。言ったよ。えーと……、南の方でね、すっごい装飾品を上手に仕立てる村があるんだ。そこのものがまたいい出来上がりで……」
目をきらきらとさせるトキノは、この頃、商人としての頭角をめきめきと現している。微笑ましい気持ちになりながら、コノエは差し出された調理品を見下ろした。バルドが、解説をするトキノに思い出したように質問をする。結局、鍋一つと新たな大皿を三枚ほど買ってから商店をあとにした。
露天の並ぶ道へ入りながら――ここの途中に、ゲンさんの家がある――、バルドはうきうきとしたように胸に抱えた包みを覗き込んだ。
「ちょうどよかったな。こういうカタチの皿、欲しかったんだよ」
「そうなのか? よかったな」
嬉しげに尾を振る姿には、コノエも薄く微笑んだ。
当然のようにゲンさんの家を一緒に訪れて、ふと、バルドがしたり顔で戸を閉めたのを見てようやく異常に気がつく。それまで、コノエは疑いの一片もなくバルドについてきていた。トキノのところに一緒に行ったのだから、当然、自分もゲンさんのところに一緒に行くと思ったのだが。
二部屋が繋がった質素な室内。そこに、猫の気配がなかった。
「……ゲンさん、いなくないか?」
警戒しながらもコノエが尋ねる。
「あー。今日は、ハーブ取りに来いっていわれてたんだ」
白々しく、思い出したというようにバルドが後ろ頭を掻く。
手荷物を横においた。にじり寄るように、コノエとの距離をつめる。コノエは眼光を鋭くしならせながら唇を引き結んだ。目の前まで迫ったバルドが、にやっとしながら鍋を取り上げた。ゲンさんが自ら大工仕事をしたという、古ぼけたテーブルの上に置き捨てる。
「アンタ……、最初からそういう目的だったのか」
「なんだよ。人聞きわりィな。宿だと、邪魔が入って集中しにくいだろ」
ああ。このところ、アサトとライがかわるがわる宿にやってくることを思い出してコノエは耳を動かした。だが、だからといってわざわざゲンさんの家でことに及ぶなんて馬鹿なことをする必要はないとも思う。
コノエは目を据わらせたままで鼻先に迫った顔を押しのけようとした。
「別に、集中してやるようなことでも」
「俺はあんたに集中したいんだよ」
虎猫は飄々と言い捨てる。
「あのな。ゲンさんに迷惑だろ」
「大丈夫だ。俺とゲンさんの仲だからな。なんだ、嫉妬か?」
「〜〜っ、勝手に言ってろ!」
バシッと頭をはたくが、バルドは笑みを崩さなかった。
「いってぇなァ。たまにはお仕置きでもするか?」
「なっ……」鼻と鼻が触れ合うほどの距離に顔がある。
たじろぎつつも、しかし、二の句が継げずにコノエが口ごもる。
ダメだ。完全にバルドのペースだ。トキノの元へと、同行を許したときからバルドはこれが狙いだったのだ――、コノエが、敵うわけがない。思考を読んだように、バルドが絶妙のタイミングで告げた。
「観念しろよ。コノエ。あんたも、他の猫の耳を気にせず思いっきり喘げゃーいいんだ」
「……エロ猫……。親父かよ」
バルドの宿は、さほど壁は分厚いわけではない。
受付の奥にあるバルドの部屋などは論外だ。客が堂々と扉を開けることもあるので、秘め事をするには向かない場所だ。何度か失態を晒しかけたことがあるので、このところ、コノエは意識して部屋でバルドと二人きりになるのを避けていた。
「お預けは苦しんだぜ? 猫には向かねえよ」
遠い昔。二つ杖の書物によれば、猫よりも忠実に二つ杖に遣えていた種族があったらしい。彼らは、我慢することにも長けて二つ杖の命令をよく聞いていたそうだ。
「アンタが、俺のいうこと……、きちんと聞いてくれること、どれくらいあるんだよ」
半ば投げやりに告げる。コノエとてバルドが嫌いなわけではない。
熱っぽく右の耳をしゃぶられて、ゾクゾクとしたものが背筋を駆けていた。
「いつもだろ?」
当たり前のようにバルドが言う。
耳を口に咥えたままだ。微妙な振動に、心臓を撫でられるようでコノエは左耳を伏せた。
「うちの宿のカワイイ看板ちゃんにゃあ、主人だって逆らえないってもんだろ」
当たり前のように、からかうようにバルドが言葉を繋げる。
恥かしいこと言うなよな。小声でうめきながら、コノエはバルドの好きなようにさせることにした。かた、と、窓が鳴る度に外に溢れる春の陽気さが香るようだった。
end
** もどる
|