ねこじゃらしの誘惑



「よっ、と!」
 屋根から飛び降りて、コノエは辺りを見渡した。
 何匹か、猫が驚いた顔でこちらを振り向いている。
 しかし恐れていた白猫の姿はない。かなり前だが、彼に目撃されたのはコノエにとって忘れがたい屈辱だ。入念な確認を終えると、コノエは肩の力を抜いた。往来をすり抜けて人気のない路地へと入る。
 浅い呼吸を、深いものへと切り替えた。
 コノエは背中に隠していたじゃらしの花を取り出した。ほうっとため息をついてそれを見つめる。
 尾がくねくね左右に動いていた。蛇のように動いて、終いには壁をたたき出す。
(だ、だめだ……。これ。くる)
 耳の先がピクピクとする。
 紅潮した顔で辺りを見回し、他に猫がいないことを確認する。路地を進み、しなびかけたダンボール箱をみつけた。震えながらもじゃらしの花を箱の入り口に差し込んで、忙しなく尾をくねらせる。
「っ……」爪をださないままで、手を丸くしてじゃらしの花をこづく。
 ふわっとモコモコの綿毛が震えた。数秒で夢中になった。
 コノエは連続して拳をつきだし、鼻先をひくひくとさせた。指の関節で撫でるたびにじゃらしの花が左右に動いて、その様子を見ているだけで体の芯が疼きだしてしまう。
 理性の問題ではない。もっと熱く、鋭く甘美な衝動だ。
 ぞくぞくとしながらじゃれついた。ひとしきり遊んで、はあっとため息をつく頃には陰の月が浮かんでいる。頬を真っ赤にして、鼻息も荒くしながら額を拭った。
「つ、つかれた……!」
 だけれど全身を包むのはこれ以上ないほどの充足感だ。
 何か、それこそ食事を終えた後のように本能が幸せだと訴えているような気分だ。この上のない気持ち良さに、コノエは尾の先を膨らませた。
 そろそろ帰らないと、ライがいい加減に気にするかもしれない。名残惜しげにじゃらしの花を見つめ、しかし、コノエは口を引き結ぶと一目散に道を引き返した。
 油断するとじゃらしの誘惑に負けてしまいそうだ。
 大通りを抜けて、宿泊中の宿を目指す。今日はバルドのところではない。北側の森に一番近い宿で、潜伏中の賞金首を狙うためにそこを利用している。
 宿への一本道に入ったところで、コノエは足を止めた。
 古びた建物の入り口に猫が立っていた。
 腕を組んで、イライラしたように尾で壁を叩いている。
「……ライ?」
 驚いて、コノエが呼びかけた。
(何してんだ。こんな時間に)
「ライ。何かあったのか?」
「…………」
 駆け寄ると、色素の薄い瞳がギラリとして振り返った。
「お前こそ何があった」
「俺? 別に、何もないけど」
 じゃらしの花で遊んでいたことは伏せておく。ライが知れば、馬鹿にしてからかってくるに決まっている。
 ライは疑わしげに眉頭を引き合わせた。
「顔が赤いな。汗も掻いているようだが」
「そ、そんなことないけど」
 いささか、声を強張らせてコノエは身を引いた。
 素早くライが腕を掴む。引き寄せられて、コノエはライの胸板に鼻頭をぶつけた。何するんだ! 叫ぶより一瞬だけ早く、ライが厳めしい声をだした。
「嘘をつくな。汗臭いぞ」
「なっ……!」
 耳のすぐ後ろで、ライが鼻をひくつかせていた。
 コノエは今度こそ全身を強張らせた。間近の体温に驚いたが、それ以上にどう言い訳をするかが思いつかなかった。旅の必需品を買い足しにいくと、それだけの用事で宿をでた。ライに断わったのだから、彼もそれを知っているはず。
「何をしていたんだ? 買い物だけでここまで遅くなるわけがないだろう」
「いや。こ、……混んでて」
 ライの気配が急速に不機嫌なものに変わる。あまりにお粗末な言い訳であるのはコノエもわかっていた。
「言えないようなことをしていたのか。おい。コノエ」
「っ……、や、やめろよ。ライ!」
 額を掴まれ、後ろへと倒される。自然と首が仰け反り喉を晒す格好になった。往来の猫たちが、不審げにライとコノエを見つめた。
 ライの瞳は冷静にコノエの肌を眺めた。やがて、ぽつり。
「少し赤味が残っているな。……汗も掻いて……、おい、気持ちよかったのか? わかるぞ。正直に言え。何をしたんだ? 誰と?」
「だ、誰って」
(何を?)
 不意を突かれた気持ちで、コノエが目を丸くする。
 だがライは正反対に怒っていた。剥きだしになった首に軽く牙を立てて、唸るような声をだす。
「いい度胸だ。俺を怒らせて何がしたい?」
「怒るって……、遅れて悪かったよ。ライ、離せよ。場所を考え、ろ!」
 胸を押し返しつつ、コノエはフゥーッと威嚇した。
 ライの耳がピンと立ち上がる。薄青の瞳は、火種のように獰猛な輝きを載せようとしていた。その瞳のままで、ライはコノエと距離をあけたまま踵を返す。
 ただし、コノエの手首を掴んだままだ。
「お、おい?!」あわや引き摺られかけた。
 抗議したが、ライは無視をした。驚く宿屋の主人も他の猫もおいて、真っ直ぐに部屋へと向かう。
 二階の一番隅だ。部屋にコノエを放り投げると、ライは後ろ手で乱暴に戸を閉めた。チ、と、小さく舌打ちしてベルトに手をかける。
「お前には体に訊いた方が早そうだな」
「……なっ。何いってるんだ?」
 手早くマントを脱ぎ捨てた白猫に、コノエは驚愕した。
 尾を膨らませながら歩み寄ってくるライへと牙を剥く。白猫はコノエよりもがっしりとした体躯をしていて、筋肉もある。動じた様子もなく、再びコノエの手首を掴んだ。
「来い。脱いでみろ。見ていてやる」
「ば……、馬鹿なこと言うなよな?!」
「お前がバカなことをしたんじゃないかと訊いているんだ。嫌なら口で答えればいいだろう」
「答えるって、何をだよ?!」
 引っぱる力に対抗して――明らかにベッドに連れて行こうとしている――コノエは両足を踏ん張った。
 フン。つまらなさそうに鼻を鳴らして、ライはコノエに覆い被さった。壁にコノエを押し付けるように、自らの巨体を擦り付ける。
「っ?! や、やめろ。何するんだ!」
 振りかざした腕は、しかし、振り下ろす前に捕まった。
 両手首を壁に縫い付けられて、コノエの動きが完全に封じられた。悔しげに息を呑みこむ猫を冷徹に見下ろし、ライが詰問した。
「どこにいた。何をしていたんだ」
 コノエは強くライを睨みつける。
「……こんなことするヤツに言いたくない!」
「ほう。どういうことをするヤツに言いたくないというんだ?」
 す、と、ライの片脚がコノエの足のあいだに割り込んだ。
 腿で下部を押し上げてくる。コノエの細い体が浮き上がるほどの力だ。ぎくりとして硬直したが、一層の力を眼差しに込めてコノエは尾を怒らせた。
「何考えてんだよ……?! アンタ勘違いしてるぞ!」
「何を、どう勘違いしてるという。言わねばわからんな」
 ここまでくれば、ライが何を疑っているのかはコノエにもわかる。頬を紅潮させ、堪えるようにして口角を引き攣らせた。
「へ……っ、変なことはしてない! 離せよ!」
「なら何をしていた。言え」
「言いたくない!」
「なら、体に訊くまでだ」
 有無を言わせない口調で、ライがコノエの首筋に齧りついた。
 甘噛みだが、コノエの身体はぶるりと震えていた。
(なんなんだ。くそっ)妙な悔しさが体の芯を焦がしてしまう。ライに言い様にされるのは気に喰わなかった。
「離せよ……! アンタなぁ! いい加減にしろ!」
「聞こえんな」
「止めろってば! アンタなんか大嫌いだ!!」
 ぴく。ライの耳が銀髪にくっつくほどに傾いで尖った。切れ長の瞳が、獰猛な色と共に見返してくる。
「……聞こえなかったな。なんと言った?」
 静かな声音で、ライが尋ねた。
「…………っ、何度でもいってやる! 嫌いだアンタなんか!」
 ぴくぴく。ライの耳が震える。
 しばし沈黙した末に、白猫は牙を見せた。
「馬鹿猫が。誰なんだ、相手の猫は。言ってみろ!」
「?! 何でそうなるんだよ!」
 悲鳴のような声で喘ぎ、コノエは必死に身を捩った。
 ライの両手が襟首を掴んでいる。自分よりも力がある大猫にそんなことをされて、しかもめいっぱいに壁に押し付けられて身体中が悲鳴をあげた。
 足で宙を掻き、ライの身体を蹴りながらコノエは目尻を吊り上げた。
「信じれない……っ、俺がアンタ以外とそういうことするわけないだろ?!」
「…………ッ」
 ライの尾が一度だけ左右に泳いだ。だが、怒りの消えない瞳をしている。ライの声にはドスが効いていた。
「交尾じゃないとすればなんだ。お前は楽しそうな顔をして戻ってきたな。それで汗を掻いて身体も熱かった。息も少し荒かったな。ええ? 何をしてきた」
「……じゃ、じゃらし……」
「は?」
「じゃ、じゃらしの花で遊んでたんだよ!」
 空気が音を奏でるならば、今の瞬間確かにひび割れただろう。
 肌で直感しながら、コノエは下唇を食んだ。
「馬鹿ライ……ッ。手、離せよ!」
 言われたままにライは身体を引いた。
 鋭利だった眼差しは、すっかり毒気を抜かれて丸くなっている。唇はぽかんとして隙間を作っている。まじまじ、一つだけの薄青の目がコノエを見下ろした。
 床に落とされるとコノエは衣服を整えた。ばかライ、と、ため息のように繰り返して踵を返す。
 ライが、やんわりとした動きで尾を掴んで引き止めた。
「……何だよ! うるさい!」
 むしゃくしゃとしたままコノエが騒ぐ。
 真っ赤だった。羞恥も悔しさもごっちゃになって、目尻には涙すら浮かぶ。片目に眼帯をつけた白猫は、丸い目をしたままでコノエを眺めた。
 真っ白い尾の先っぽだけが丸くなっている。
「…………」疲れたような、気疲れしたような盛大なため息が猫の口から零れた。肩を落とす彼など滅多に見れるものではないが。だからなんだ。俺のがよっぽど傷ついたぞ。
 コノエは堂々と、苛立った顔をしてライへと半眼を向けた。
「も・う・ね・る。謝るなら明日にしろ!」
「馬鹿猫め。誰が謝るか」
「……なっ」
 それが当然だと思っていたので、コノエが面食らった。
 ライは、片目をにやりと笑わせた。疲労が滲んだやり方で、引き上げた口角も少しだけ震えている。
「まったく……。お前と言う猫は。くくく……」
「――――っっ?!」
 笑いだすライにはコノエも驚いた。
 後退りしようにも、掴まれているのは尾だ。
 ぶらりと膨れた尾の先を楽しげに見下ろして、ライが歯を見せた。生き生きとした顔をしている。
「相変わらずじゃらしには弱いのか? それほど気になるなら取ってきてやろうか」
「……っごめんだ!」
 ほら、やっぱりからかう気だ!
 脳裏に悲鳴をあげるコノエなど露も知らず、ライは先ほどまでの怒りもなく言葉を重ねた。
「修行が足りんな。あれしきの衝動も抑えつけられんとは」
「うるさい!! ライのことなんか知るか!」
「落ち着け。けなしてはいない」
 どこがだ! 涙目で睨みつけつつ、コノエはライの手から尾を取り戻しにかかった。だが、その手首にライの尾が絡んだ。
「っっ」ぞくりとした。
 何かを誘うような動き方をした。
 気を取られた一瞬のスキをついて、ライの腕が横から伸びて腰を掴まれた。認識した刹那、ベッドに放り込まれていた。
「うわっ?!」
「お前、俺とならこういうことをしたいんだろ?」
 我が物顔でライがベッドに膝をつく。そうして、白猫がコノエに跨った。威嚇するように牙を見せ付けたが、彼は、実に愉しそうでもはや止めることは出来ない。唇の端を笑わせたまま、ライがうめいた。
「馬鹿猫だな……。待っていて損をした」
「な……?」(待っていた?)
 ――すぐに、コノエは口を丸くした。
 まさか本気だったのかと思ったのだ。朝、何故だかライが圧し掛かっていて、寝ぼけながらも『せめて夜だ。じゃなきゃ絶対にいやだ』とか言った気がする。
『ほう?』ライは、どうでもよさそうに相槌を返したが、それでコノエから離れて水瓶の方へと向かった。
  突然、顔を洗い出した猫を見つめつつもコノエは起き上がったのだ。そうして、昼には買い出しにでかけて……何しろ街に戻ってきたのは久しぶりなのだ。
 久しぶり。そこまで思い返して、コノエは頬を赤くした。
 かぷりと耳に噛みつかれ、丹念に耳を舐められる。その内髪の毛に口付けしながらライの舌が頬を滑った。
(か、変わり身早すぎるだろ……っ)
 体の芯が疼く。じゃらしによる衝動とは違う。
 もっと、甘くて痒くなるようなものだ。背筋が僅かに震える。じゃらしが与えてくる衝動がウズウズして飛び掛りたくてたまらなくて、辛抱ができないものだとしたら、ライが与えてくる衝動は雷のようなものだ。一直線に心臓を捕らえて、全身が震えるような疼きが腰まで走ってくる。その後には奇妙な暖かさが残ることをコノエは知っていた。
 反射的に息を呑んでいた。笑う気配がして、思わず囁いた。
「アンタなぁ。自分勝手すぎるとその内痛い目みるんだからな!」
 前髪をあいだにして、眼帯をつけていない方の瞳が笑った。ライはしたり顔で小さく鼻を鳴らした。
「だが、俺でないと嫌なんだろ?」
「そ、そこまで言っていない」
「似たような意味だ。馬鹿猫め」
 くるる。喉を鳴らして、ライはコノエの頬を舐めた。咄嗟に――なぜそう思ったのかはよくわからなかったが――半ば直感に近い、コノエは敗北を悟った。




end.

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