闇の影にうごめく焔
「無駄だなァ、コノエ。お前は私には勝てない」
威圧的な嘲笑に、猫は歯軋りをした。その両手は左の脇腹を抑えて、目は血走りながら左右の化け物を睨みつけている。右にはコノエと同じ顔をした猫が仁王立ちになっていた。
左には、彼の賛牙にして忠実たるしもべ。
フィリは、ナイフについた真っ赤なものを舐め取った。美味と告げるように、ニィッと唇をめくらせる。
「どうするのだ? 絆も何も信じられなかった哀れな猫よ。ここまでたった一匹で乗り込んだその度胸は褒めてやるがな、ハハハハハ!」
「くぅっ……!」
歯軋りして、コノエは剣を持ち直した。
ぼたぼたと落ちるものがある。しかし、気にしてはいられない。ここで踏ん張ることができなければ終わってしまうのだ。すべてが、この世界が。
「…………っっ」
こめかみが裂けるほどの痛みが走る。
リークスは、捨てた仮面へと視線を落とした。
「あれをつけてやった方がお前には親切かな? どうだ? コノエ。お前という猫は、本当はお前ではない。私という猫から生まれたゴミなのだよ!」
「うるさい……っ、黙れ!!」
だんっ。一歩を駆け出すと、フィリが跳ねた。
しかしコノエにナイフを振り下ろすより先にリークスが制止する。リークスは、漆黒の生地に覆われた手のひらを差し出した。
「くらえぇぇええ!!!」
「フンッ」
「?!」
見えない波が生まれて、コノエは吹飛ばされた。
「無駄だ。大人しくしているんだな。直に闇は世界を呑みこむ、この世界も月も猫も――お前もわたしをもな! ハハハハハハ!!」
「狂ってる……ッ、アンタ狂ってるよ!」
「ほざけ!」
「うあぁあ?!」
波が二度三度とコノエを舐める。ブチンッと千切れた音がした。マントが吹き飛び、さらに右肩に大きな裂傷ができあがる。
うめいて身を捩るコノエに、リークスは片眉をあげた。
「そうだったな……。コノエ、わたしと少しでかけようか?」
「……え?」
場違いなほどに頓狂な声が出た。
その瞬間、コノエの目の前に広がったのは火楼の村だった。虚ろに犯された姿ではない。以前の、コノエが住んでいたときそのままの寂れた村がそこにあった。
「――――っっ?!」
ガツン、と、殴られたような衝撃が走る。
そこには猫もいた。見覚えがある、白い髪の毛にすらっとした体。よく縄張り争いをしていた猫だ。生け贄に選ばれたあの日、なぜだか夜にコノエの家の前をうろうろしていた。
「な、なんで……。生きてるわけ、がっ」
今度こそ、言葉を失った。村の中に雌猫がいる。
しかも、あれは――。
「間違っていないな?」
すぐ後ろから、声が聞こえた。
飛び跳ねるように前へと身を投げる。だが、無造作に尾をつかまれて悲鳴が零れた。地面に蹲り、総毛たつコノエをリークスは嘲笑を浮かべて見下ろした。
「お前の母だな? あれが」
「何を……! 何をしたんだ!」
「なぁに、過去に遡ってみせただけだ」
「?!!」気軽に言い放ったリークスは、やはり気軽に片腕をあげた。振りかぶるように五本の指を肩の後ろに下げる。
――きゅんっ。空間が軋むと同時に、光りの球が火楼に直撃した。
「やっ。やめろ!! 母さん!!」
「はははははははは!!」
おかしくてたまらない!
言葉を代弁したかのようにリークスの笑い声がこだまする。その常軌を逸した笑い声に、コノエは冷水を浴びせられた気分になった。
違う。本物ではない。母さんはずっと昔に死んだし、ついこの前まで縄張り争いしていた猫と共にいるはずがない。生きている時代が違うはずだ。
「――まやかしか!」
憎憎しげにうめく、コノエが睨み上げた。
いまだに尾を掴まれたままだ。リークスが変わったものでも見るような目でコノエを見下ろした。
「まだ気付かないのか? 鈍感な猫め」
意味が理解できず、コノエは両目をしばたかせる。
まぼろしで出来た火楼は火に燃えていた。まぼろしの母が、助けを求めながら森に逃げていく。誰もコノエもリークスも見えていないのだ。いや、精巧な人形劇のようなものだとコノエは思い直した。
「どういう意味だ……!」
「誰に似たのだろうな。ええ? コノエ!」
「ぐぅっ?!」尾を潰すほどの握力で、全身に鳥肌が立つ。
背筋を仰け反らせたまま、痛みをやり過ごそうとして――気が付いた。尾が、元の色に戻っている。呪いが解いてあるのだ。
「なっ……、に」
ゲホ、と、堰がこぼれた。
腹と肩に走った裂傷が火がついたように熱い。つう、と、コノエの唇を伝ったのは噴き出た鮮血だった。
リークスは満足そうにコノエを見下ろし、握ったままの尾にもう片方の指を添えた。
「立て、コノエ……!」
「…………っっ」
尾を引かれるまま、足に力をこめる。
膝をたてて上体を持ち上げる。それだけの動作だのに、傷ついた心身には拷問のようだ。リークスが後ろからコノエの耳を鷲掴みにした。
「ああっ?!」
「面白いと思わないか。顔は私だ、だのに、確かにお前はシュイの猫だ」
「なに、……言って」
「こちらを見ろ。コノエ」
耳を無理やりに引かれて、千切れるのではないかという錯覚すら起こる。半ば引き倒されつつも、コノエはリークスを振り返った。
リークスは狂気じみた笑みを浮かべていた。
「私の老廃物め……。シュイめ。コノエ、お前にはわからないのか? 今のお前は俺が最も厭うものを詰め込んでいるのだ!」
「ぐっ……、あ、アンタが何いってんのか全然わかんな……」
胃が火に炙られている。傷口から沸いた痛みが、脳天を焦がす。
リークスはコノエの口角を見つめた。だくだくと血が落ちていく。クク、と、黒い猫は邪悪に笑って見せた。
す、と、生地に覆われた指先が襟首を辿る。
乱暴に肩の傷に手をかけた。傷口に爪をたてるのも構わず、背中の向こうに目掛けて衣服を毟りとる。上半身を露わにされても、コノエは悲鳴すらあげられなかった。
リークスの狂気の泳いだ瞳から目が逸らせなかった。
自分の中身を見ているような、魂を見ているような目をしていた。同じ顔だ。全く同じ顔だのに、知らない猫がいる。知らないコノエがいる。
「……っ、あっ、ああっ……」
絶望に濡れた呻き声に、リークスがにやついた。
「自分に抱かれるというのはどういう気持ちだ? 私に教えてみろ、コノエ。感情のない我が身に絶望というものがいかに甘美であるか教えてみせろ!」
「いや、だっ……。いやだ! いやだぁあああ!!」
「お前はわたしだ、コノエ! だがわたしではない。お前はシュイだ。そしてコノエなのだよ。お前はわたしであってシュイであってコノエなのだ!!」
草むらに引き倒されながら爪を立てるが、無意味だった。リークスは肉弾戦には向いてなさそうな外見をしていたが、その魔術の威力は偉大だ。
見えない糸に絡め取られたように、腕が、自分の頭よりも高い位置にあがらない。這いつくばったままでもがくコノエをリークスが見下ろしていた。馬乗りになったままで、くつくつと肩を笑わせる。
「なあコノエ。絆とは何だ? 愛とは? お前は結局わからなかったんだろう。なぁ。だが思わないか? このわたしと、お前とのあいだにも何らかの絆はあったのだぞ。因縁と言う名の絆はどうだ」
「やめろ……ッ。はなせ! やめろぉおお!」
尾は見えない糸に捕まらなかった。理性が薄くなったまま、がむしゃらにリークスの顔面に尾を叩きつける。真正面から受け止めて、リークスはしばらく動かなかった。
「……わたしを拒絶するのか? 面白い。わたしのゴミに過ぎんお前がわたしをいらないというのか。さすがだ」
達観したような声だ。気の抜けたような声でもある。
スキと見て、コノエは声を張り上げた。
「アンタが、なにいってんのかさっきから全然わかんないっ。どけよ!」
「――さすが、シュイの息子だ」
ぼそりと呟いた声は、コノエには届かなかった。
コノエの尾を取ると、リークスは容赦なくそれを噛んだ。ギリリと牙が食い込むと同時――、
「ああああぁぁああぁあああっっっ?!!」
コノエの絶叫があがる。リークスは静かにそれを見下ろした。血混じりになった尾を口からだす。
それから、茶色と白の混じりあったところを見つめながら丹念に血を舐め取った。毛の流れを鋤くように、それだけは、丁寧な動きだった。
「コノエ。……同じ顔だと言ったな?」
組み敷かれたままでコノエは体を大の字にしていた。土に爪をたてて掻き毟りながら、痙攣を繰り返している。
「それだけだ。お前とわたしは、似ていない。お前は違う方に似ている」
「…………?」
コノエは虚ろにリークスを見返した。
痛みにつぐ痛みが脳天を焼いて、思考を白く染める。自分と同じ顔が鼻先に迫っていた。ぺろ、と、唇を舐められる。それから重なった。地の味が咥内に広がる――、燃え盛る炎が視界に映る。
コノエは火が苦手だ。ぶるりと耳を震わせて、そうして気が付いた。リークスは不敵な笑みを口角に浮かべ、勝ち誇ったような目をしていたが。何かに怯えるように、その耳が寝ている。よく見れば黒い尾も自らの身体に巻きついて縋るようにしている。
「コノエ……。シュイの息子よ」
呪うような声がする。
「楽に死ねると思うな。闇や虚ろに殺される方がマシだとその口から言わせてやろう」
わたしが直々に手をくだす。ありがたく思え。
く、く、途切れがちにリークスが嘲った。コノエは虚ろな声で聞き返した。
「……父さんの、こと、なのか……?」
リークスは氷のような眼差しを猫に返す。
何かを逡巡するような間を挟んで、黒猫は静かに頷いた。
そうして笑い出した。どこへいるとも知れない魂に、その笑い声を聞かせてやろうとするような――盛大な笑い声が、燃え盛る村の隅々にまでこだました。
end.
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