風詩




 下段からの切り上げに少年の反応は素早かった。疾風の如き駆けざまで飛び退り、即座に風の術式を組み立てる。防御障壁だ。少年、リヒトの周囲に、黄色い光を放つエーテルがふわっと広がって衝撃を飲み込んだ。
「ちょおっと本気になったか、ユイ?」
 彼は額に浮かぶ冷や汗をそのままに軽口を叩いた。
 向かい合う修練者の名は真名瀬唯。
 二人は主と契約者という関係性。主の鍛錬に口を挟み、ならオレが相手になろうかと切り出したことでリヒトは自らの窮地を招いたのだった。リヒトにすれば思惑があったからだが、
「この、馬鹿者!」
 その思惑が唯の逆鱗に触れたのは明らかだった。
「いきなり何をするのだ――、非常識もいいところだぞっ」
 唯は赤面したまま目で辺りを探る。人影はなく気配もない。目撃者はないようだ。オグドアス総本部、屋上、朝の早い時刻であったことが幸いした。
 世界の命運を決する戦いから一年。唯とリヒトは本部に勤めて世の調律のために活躍を続けていた。昨夜、遠い異国での勤めを終えて戻ってきたばかりだ。
 朝の清清しさを湛えた風が二人の間を走る。
「怒るなよ。オレの気持ちだって少しは考えてくれてもいいじゃないか?」
 リヒトは拗ねたように肩を竦める。唯が尖った呻き声を出す。
「怒ってなどいない。今の一撃、無論、当てる気などなかった!」
「そりゃあ、当たり前だ。ユイの精霊器なんぞに直撃されちゃオレなんかひとたまりもないぜ。ユイ、そんなピリピリするなよ。キスの一つだろ」
「そ、そこまで過度なスキンシップは必要ないだろう……」
 頼りなげに声を返して、唯は己の至上の武器とする大鎌を握りなおす。朝の日課、鎌を用いての体操の最中にリヒトが顔を出したのがことの始まりだ。
「あるだろう。昨日、すぐ寝ちまった薄情者サンだ」
「長旅の疲れもあるだろう、リヒト。お前も休めばよいのだ」
「よくいうぜ」
 軽々しい調子に反してリヒトは唯と距離を取る。思いがけない大鎌の一撃で、内心で肝を冷やしたらしかった。実を言えば唯も本心で攻撃したワケではない――、リヒトが組み手を取ると見せかけて顎を掴み、さっと唇を掠めようとした瞬間、
(口付け?!)
 と、驚くあまりに、緊急時の対策として馴れた動作を身体が自動的に再生しただけだ。
 鎌を奮った直後に唯も青褪めた。あってはならぬことをした。謝罪をせねばと理性が告げるがその前に唇が動く。
「よくわからないのだが……。お前はオレに何を求めている? オレは何の覚悟をすればいいのだ?」
「おいおい、そんな顔するなよ。アンタを困らせたいわけでもないぜ」
 前置きを置いてから、リヒトが喉を詰まらせながら喋った。碧石の両眼を細くする。
「ただ久方ぶりに二人っきりだったっていうのに、何もないのがね。任務は落ち着いたからゆっくりできたはずだろ? 魔力、足りてるのか?」
「問題ない。充分にある」
 真実だ。この一年、リヒトが短い周期でもって配給を続けてくれるおかげで、唯の体内を巡るエーテルの流れは随分と効率的なものに変わった。
 通常の身体機能に例えれば、新陳代謝がよくなったというやつだ。
 リヒトはつまらなさそうに唇を尖らせた。後ろに下がると、顎をしゃくって体技の続きを促す。
「邪魔して悪かったな。どーぞ、祭司長候補サマ?」
「ちゃかすな」
 一言、釘を刺して、唯は大鎌を握った。
 朝日の光が全身を照らす。清い心地になる。だが落ち着かなかった。引いたはずの熱がまた頬に募る。
(見てるな……)
 苦々しい思いで、鎌を用いた演舞の最中にリヒトを見遣った。
 彼は神妙な顔つきで唯の鍛錬を眺めていた。
 落ち着かない。と、同時に先程の瞬間的な残像が脳裏に浮かぶ。契約者たる少年は本気で表情を失ったのだ。一秒にも満たなかったとはいえ。唯は体技を終えると鎌を下ろし、リヒトを真っ直ぐ見つめた。
「リヒト。先程はすまなかった。ヒトに向けて鎌を振るうなど――、いや、お前に向けて鎌を振るうなど、いかなる場合であっても在ってはならぬことだ」
「…………はあ?」
 リヒトが碧石の眼をぽかんとさせる。
 物思いに沈んだ最中での、唐突な呼びかけに理解が追いつかないという顔だ。
「あ、ああ。気にするな。してないから」
 うわ言のように素早く言い切って、しかし、リヒトはまだぽかんとしていた。まじまじと唯を見つめる。唯は、居心地悪そうに「すまない」と小声で繰り返し、前を通り過ぎようとした。屋上の扉へと向かう。
「待てよ、ユイ」
 リヒトがその手首を掴んで阻む。
「わからないっていうなら、はっきり教えてやるよ。そういう気分になった」
 自分に言い聞かせるような口調だ。唯は困惑して契約者を見上げた。断りもなく頬に触れた指が、急速に熱を帯びる。皮膚の下へと強引な魔力抽入が起きていた。
「うわっ?」
 人一倍、魔力に対して敏感な分、唯の反応は大きかった。
「何をするっ。必要はないと言っただろう」
「やっぱり、カワイイよ。アンタは」
 契約者たる少年は、金色の髪を風に靡かせて眼を慈愛に細めてみせる。思いがけない言葉と態度に唯が言葉を失う。
「オレがな、やりたいんだよ。やらせてくれよ。アンタに魔力をあげたい」
「なっ……、は、配給の意味がないぞ?」
 なんとか理性を集めて唯が抗う。言葉を続けた。
「オレの見立てではあと一週間は平気だ――。気遣いは、うれしい。しかし不調でもないのに魔力を奪えば、逆にリヒトの身体に負担をかけるのではないか?」
「ちがうちがう、気遣いじゃないからさ、これ」
「は?」
 唯は眼を丸めた。リヒトが溜息をつく。
 観念したような、呆れたような、苦渋の滲んだ熱い吐息だった。
「じゃあキスの一つくらい許してくれよ。そろそろ、ここに、さ」
 上唇を、親指の腹で押されて、唯が驚愕の顔をする。みるみると頬が赤く腫れた。
「な、なななにを言うんだ。リヒトっ?」
「ああー、もう、隊長さんは男心がわからないヤツだなぁ。オレを飼い殺しにでもする気かよ? 天然ガードはいい加減に解いてほしいってもんだ」
「が、ガードだと? 防御障壁は張っていないが……。オレとお前の仲だろう」
 精神的な障壁も何もない、まっさらな状態で唯はリヒトの前に立っている。リヒトは唯の髪に指を差し入れ、頭を撫でるようにしながら、また溜息をついた。
「天然たらしかよ、アンタ。ずるいな」
「オレがずるい? リヒト……。お前、この頃、どこかおかしいぞ」
 不審げにする双眼に、リヒトが至近距離から睨みを効かせた。
 悪戯っぽい光があるが、奥には切なげな熱情が潜む。
「だって、一年経ってるぜ。もう充分じゃないか?」
「充分――」
 その言葉の意味を考えようとして、唯は、しかし言葉を途切れさせた。碧石の眼球が間近にあるせいで、落ち着かない。思考がばらばらに解ける気がする。
「わ、わかった。今日は魔力配給を頼む。とにかくそれでいいな?」
「…………」
 ひとまずの逃げ道に駆け込もうとする主に、契約者は一瞬だけ不満げに眼を光らせたが、
「ああ、いいぜ。アンタがそれを望んでくれるなら」
 次には、満足げにニコリとした。
 安堵を覚えて、唯が肩から力を抜いた。
「お前は底が深いな。リヒト。まだわからない部分がいっぱいあって、お前と一緒にいると新鮮なことばかりが起きる」
「新鮮なことばかり、か」
 頭痛を堪えるような素振りでリヒトが自らの額を抱え、空を仰ぎ見た。
 歩き出したユイの隣に追いつく。
「ユイ、オレはな、アンタをもっと新鮮な気分にしてやりたいんだぜ? そろそろさあ。いいと思うんだけどな――」
 ぶつぶつと言い募る契約者を見上げ、唯は屋上の扉に手をかける。
「?」
 と、ユイの眸が疑問の形に丸くなるのを見て、リヒトは深々と溜息をついた。道のりの遠さに思いを馳せ、嘆くようなものだった。
「アンタ、手強いな」
「…………? 侮ってもらっては困る」
「あー」リヒトは眉間に深々とした皺を作る。ややぶっきらぼうに返した。
「そうだな。最強だ」
「? 何やら含みのある言い方をするのだな」
「実際、含みがあるからな。さて、今日の朝食は何かなっとー、ユイ、お前、昔からあんな豪勢な食事を食べてたのか?」
「あれが、普通だと思っていたぞ……」
「は、常識のケタが違うね。オレみたいな庶民には信じられないな」
 屋上を後にしても、開け放たれた小窓から新風が入り込んで少年達を撫でた。心地よい朝ではあった。





end.

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